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マネジメント層こそ見直しを。私たちは50年以上前から語られる組織課題に今なお直面しているということ。

こんにちは。スキイキ事業部の大山です。
感染症リスクがまた大きくなり始めつつ、いよいよ肌寒さも本格的にもなってきました。無理せず、リモートワークやおうち時間を活かして健康にも気を配らないとけません。
ということで、今回はそんな時間で楽しめる1冊をご紹介。特に経営層や管理職など、組織やチームをマネジメントする側の方にはおすすめの本だと思います。

私も社会人になってから、様々な会社や会社員の方と出会ってきました。
人間、成長に終わりは無いというようなことが叫ばれるように、
新卒だったら新卒なりに、3年目だったら3年目なりに、つまりその時々で己の職能や組織内での在り方、あるいはその組織内の人々との関わり方に対して葛藤が誰しもありますよね。

しかし、卵が先か鶏が先かわかりませんが、そんな葛藤のおかげで何か気付きに繋がっているという面もあるのだとも感じます。
振り返ってわかったことは、「業務的な優秀さ」や「要領的な頭のよさ」などが今の仕事スタイルや役割、ひいては生活を支えてくれているわけではないということ。

自分が最も貢献できることって何だ?

という、「自身に対しても周囲に対しても誇れる専門的価値」に対する葛藤の結果、何に集中すべきかに見当をつけられた。
ということが大きいように思えます。

今回、そういった仕事や組織という面に対し「経営論」として提唱していたピーター・F・ドラッカー氏による著書(1964年)の最新訳ドラッカー名著集1 経営者の条件も元にしながら想いを綴らせていただきます。

専門性の重要さ。専門性は個ではなく組織においてこそ意味を持つ。

そもそもの大前提として、難しく思えて実は単純な話なのは、業務というのはその領域において専門的な者が遂行した方がいいということです。
どんな会社や事業部などでも、社外に対し何か依頼や発注をすることがあると思いますが、然るべき相手ではないのにそうなることは基本的には無いはずです。

あるのは、その“然るべき”という中身が、品質なのか金額なのか納期なのか、などといったいくつかの要素に分けて考えたときにどうかということだけであり、何かしらそれに伴う観点があるからこそ取引は成立します。

私が大事だと思うのは、これは組織内においても同様であるという点です。
この最も基本的な前提は、組織内における人事方針や人事評価、あるいはチームやプロジェクトの体制検討などにおいてこそ重要であるはずなのが、実際のところは組織内においてはより忘れ去られ軽視される傾向にあります。

専門性を持つ人よりそうでない人を重宝してしまうケースに共通するのは、その非専門的な人員を便利なリソースであると捉えてしまっているという点です。
以前の会社で私が働いていたときもそうなのですが、明らかに何かにおける私の専門的職能というのは欠如しているにも関わらず、謂わば「地頭のよさ」「要領のよさ」「ジェネラリスト的な適性」などといった類の仮初の建前によって便利な役割として駆り出されざるを得ないこともありました。

これを、専門性を持つ人(スペシャリスト)が業務において適任ではないこともあると言うとしたらそれは大きな誤りで、単純に組織的なベストを探すことを不可抗力として捨てているだけの話。スペシャリストの価値や必然性を認めなくていい理由にはなりません。

ドラッカー氏は、このスペシャリストというのに近しい表現として“エグゼクティブ”という言葉を用いており、当該著書の翻訳においては“知的労働者”“専門家”とも記されています。

面白いのは、こういった、働き方の形態やスタイル、また業務のスキルセットなどが多様化した現代だからこそより実感するのだと思える課題に対し、通ずる軸が当時から語られていることです。
いかに組織においてこそ専門性が重要かというのが、下記抜粋例のような基礎文脈を以ってして、当該著書の前半から後半までわりと一貫して主張され続けています。

頭のよい者がしばしばあきれるほど成果をあげられない。彼らは頭のよさがそのまま成果に結びつくわけではないことを知らない。頭のよさが成果に結びつくのは体系的な作業を通じてのみであることを知らない。(p.18)

特に下記は、個々が専門家であるべきでありまたその集合が組織であるべきである、ということを各所で啓発する土台となっています。

知的労働者が生産するのは物ではなく、アイデア、情報、コンセプトである。知的労働者は、ほとんどが専門家である。彼らは一つのことだけをよく行うとき、すなわち専門化したとき大きな成果をあげる。しかし専門知識はそれだけでは断片にすぎず不毛である。専門家のアウトプットは、他の専門家のアウトプットと統合されて成果となる。(p.88)

専門性はコミュニケーションによって組織で活きるか。

現実的な側面から考えると、こと経営層や管理職の目線からすれば言うまでもなく、急に組織内のメンバーを“専門家”たらしめるのには無理があります。

ただし今の時代では、例えば業務委託で外部から専門性を持つ副業やフリーランスを招き入れるなりいくらでも出来るわけなので、雇用の採用基準として新たな考えを設けるかどうかはここでは度外視しますが、
まず向き合わねばならないのは、“目前の人材の専門性は何か”“専門的人材をどう活かすか”について試行錯誤することです。

上記引用にもある通り、専門性は組織においてこそ活きるものであり、単に突出した特定個人を囲い込みその個の力に依存し労働させることで意味や貢献に繋がるものではありません。

だとすれば、いずれにおいても要となるのは“コミュニケーション”であろうことは想像に難しくないでしょう。
ただしもはや手垢の付きすぎた横文字であり、これはこれで危ないキーワードなのですが、ドラッカー氏はちょうど、組織としての成果や貢献に必要な四大要素のひとつとして挙げており(他は「チームワーク」「自己開発」「人材育成」です)、中でも最も厚く、しかし意外と端的に答えてくれています。

これまで研究されてきたのは、経営管理者から従業員へ、上司から部下へという、下方へのコミュニケーションだった。だがコミュニケーションは下方への関係として行われるかぎり事実上不可能である。(p.93)

ところが仕事において貢献する者は、部下たちが貢献すべきことを要求する。「組織、および上司である私は、あなたに対しどのような貢献の責任を期待すべきか」「あなたに期待すべきことは何か」「あなたの知識や能力を最もよく活用できる道は何か」を聞く。こうして初めてコミュニケーションが可能となり容易となる。(p.93-94)

端的とはいえいくぶん堅苦しい説明に感じられるかもしれませんが、要するに、“上方から一方的に業務として課したミッションに対する会話や理解のチェックがコミュニケーションではない”と言い換えていいでしょう。

さらに柔和な表現で、しかしより詳細に言及されている言葉も踏まえると、“専門性を活かすことは人の強みを生かすこと”とも言えます。著書内では“卓越性”という表現も使われています。

強みをもつ分野を探し、それを仕事に適用させなければならないことは、人の特性からくるところの必然である。全人的な人間や成熟した人を求める議論には、人の最も特殊な才能、すなわち一つの活動や成果のためにすべてを投入できるという能力に対する妬みの心がある。それは、卓越性に対する妬みである。人の卓越性は、一つの分野、あるいはわずかの分野において実現されるのみである。(p.105)

正直、これは耳の痛いことです。
自分もそうなのですが、何かに困ったときには何かが足りないのだと思ってしまうことがあります。仕事でも然り、その足りないピースを便利に足して埋めてくれる能力やリソースを探してしまいがちです。

しかしそれは卓越性を認め活かしてもらおうとすることからの逃避。あるいはそうするための担務体制などの前提が整っていないことの証
部下やチームを持つ者は、ありきたりな個々の意欲や目標に対するコミュニケーションではなく、その人その人の専門性(=強みや卓越性)が活かせるような適性把握、そしてそのための関係性構築、また環境整備をせねばならないのです。

すべきは「仕事の配置」か「人の配置」か。ジレンマとの対峙。

随分と長々と書き連ねてしまいました。最後に、現実的な障壁についてです。

ここまでの話は、こうして結論的な形で掬い上げて見聞きしたところで“当たり前のことね”って感じてしまうのですが、
それでもやはり、その当たり前と感じるようなことが徹底されてきていないのが事実なのです。私も自信なんかありません。
その点について下記のように挙げられています。

主たる理由は、目の前の人事が人の配置ではなく仕事の配置として現れてくるからである。したがって、ものの順序として仕事からスタートしてしまい、次の段階としてその仕事に配置すべき人を探すということになるからである。そうなると、最も不適格な人、すなわち最も無難な人を探すという誤った道をとりやすい。結果は凡庸な組織である。(p.107)

つまり「仕事の配置」先行型です。
これはこれでぐうの音も出ません。特に、より専門性の必要な業務を強化しようと思えば思うほど、その業務起点で体制などは考えてしまいがち。

かと言って、では「人の配置」先行型となるのか。
それの意味するところは、専門性、ないし専門性をもった人のことを第一優先に重視するために、各業務の在り方を変えるということ。この危険性についても、上記引用に続く形で指摘されています。

そのような事態への対策として最も喧伝されている治療法が、手元の人間に合うように職務を構築し直すことである。しかし、きわめて単純な小さな組織を別として、そのような治療は病気よりも害が大きい。仕事は客観的に設計しなければならない。人の個性ではなく、なすべき仕事によって設計しなければならない。(p.107-108)

こうなるといよいよわかりません。どちらのパターンも記憶にありますし、きっと我々は今後も二転三転するしかないのでしょう。
ドラッカー氏はそれへの主要な対策を四つまとめてくれていますが、特に二つは、雇用形態などに関係なく参考になりうるので端的にだけ要約します。

(1)適切に設計されているか
仕事は人の手によるもの。人にはできない仕事をつくってはならない。組織図の上では理屈が通っているが、誰にもこなせず挫折する。
そういう仕事は例外的・特異的な人の適性に合わせてつくられていると考えねばならず、それは専門性とは異なるものだということ。

(2)多くを要求する大きなものか
それぞれが専門性・強みを発揮し成果となるように仕事は大きく設計すべきだが、ほとんどの組織では小さく設計しており、人が特定の時間に特定の働きを示すようつくられている場合にしか意味を成さないという。
特に若い知的労働者が早いうちから自らの強みを自問できるよう、小さく固定的な業務体系を捨てるよう示しています。

働き方改革やダイバーシティなど、現代においてこそよく耳にする機会も増えた観点と重なっているとしか思えません。
温故知新とも言うべきか、結局のところ「人」と「仕事」の両側面ともに向き合わねばならないということを改めて突き付けられているようです。

これからも仕事のためにどんどん新たに出会うであろう人々に対し、それが正規採用であろうが副業であろうがフリーランスであろうがインターンであろうが、
謂わば項目的なスキルセットの確認のみではなく、そういった専門的職能や適性が、組織における業務体系・設計と見合うか、あるいは活きるような余白を見据えられているかも同時に考えねばならないということですね。


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さて、今回はこの季節ならではな「#読書の秋2020」コンテストにあやかって、これまでの仕事への葛藤と関わりあった1冊として紹介・執筆いたしました。

ちなみに今回のドラッカー名著集1 経営者の条件は、難儀な本に思えるかもしれませんが、実際は200ページ強ほどのハードカバーです。私の駄文とは違って、意外と簡潔にまとめられており読みにくさは無いと思いますので(笑)、ぜひ手軽に手にとってみてはいかがでしょうか。

それでは!